2.大高城
1.沓掛城
桶狭間古戦場を巡る旅
桶狭間の戦いは、「うつけ」と評価され、問題視されなかった人物を、一気に注目させることになった合戦です。
いつの時代でも、閉塞感を打破できるのは変人かもです。
さて、戦いの日の朝、熱田神宮(当時は熱田社)で戦勝を祈願すると、社殿から2羽の白鷺が舞い上がり、今川義元の本陣の上で旋回して、義元がいる場所を教えたので、信長はもとより、信長軍の兵士たちは、勝利を確信したそうです。
(2015年7月訪問)
「沓掛」とは、峠を越える前に草鞋を新品の物に履き替え、古い草鞋を木に投げて枝に掛けるという風習で、峠の麓にはよくある地名です。沓掛城の西にある二村山が三河国と尾張国の国境で、峠を越せば、鳴海城(城代は岡部元信)です。
沓掛城での軍議により、松平元康(後の徳川家康)が大高城(城代は鵜殿長照)に「兵糧入れ」を行うことになりました。この深夜の兵糧入れが成功すると、今川義元は、鳴海城ではなく、大高城へ向かいました。(異説あり)
3.桶狭間山
4.名古屋市
大高城への移動中に、織田信長の出陣を知った今川義元は、大高城に入らずに(異説あり)、見晴らしの良い「おけはざま山」に登って本陣を構え、戦況を見守ったといいます。
戦況が悪くなって、今川義元は逃げます。逃げた方向は、東の沓掛城方面とも、西の大高城方面とも言われています。
名古屋市は、大高城に逃げ込む途中で討ち取られたとして、桶狭間の戦い450年めの平成22(2010)年に「桶狭間古戦場公園」(現・名古屋市緑区桶狭間北3丁目、旧・有松町大字桶狭間字ヒロツボ)を作りました。
5.豊明市
6.義元首塚
一方、豊明市には、「桶狭間古戦場伝説地」(豊明市栄町南舘11)があり、沓掛城へ逃げ込む途中で討ち取られたとしています。
個人的には、大高城や沓掛城よりも、奪い取った丸根砦(鵜殿長照)や鷲津砦(朝比奈泰朝)の方が近いと思いますが。
岡部元信は、今川義元の首と引き換えに織田信長に鳴海城を明け渡しました。そして、義元の首を駿河に運んだそうですが、腐敗が激しかったため、東向寺(愛知県西尾市駒場町榎木島115)の「今川義元の首塚」に埋めたとする説もあります。
7.義元胴塚
今川義元の首の無い胴体は、今川方の残兵によって駿府まで持ち帰ろうとされましたが、やはり腐敗が激しく、大聖寺(愛知県豊川市牛久保町岸組66)の「今川義元の胴塚」に埋められたそうです。