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長篠の戦い

 

 

「長篠の戦い」とは、

①長篠城の攻防戦:長篠城主・奥平貞昌(後の信昌)と武田軍(大将:武田勝頼)との戦い

②設楽原での戦い:援軍(徳川・織田連合軍)と武田軍(大将:武田勝頼)との戦い

③鳶ヶ巣山等5砦の攻防戦:徳川・織田連合軍の別働隊と砦を守る武田軍との戦い

の総称です。

(2015年10月訪問)

1.長篠城
2.武田軍の配置

長篠城(愛知県新城市)は、川や絶壁に囲まれた難攻不落の城で、日本100名城に選ばれています。

長篠城の攻防戦は、城兵500人 vs 武田軍15000人の戦いで、武田軍がすぐに勝利すると思われましたが、勝敗はすぐにはつきませんでした。

武田軍は、長篠城を取り囲むように配置されました。大将の武田勝頼は、医王寺の裏山である医王寺山に本陣を置きました。

また、川の対岸にも、鳶ヶ巣山砦など、5つの砦を置きました。

3.設楽原
4.馬防柵

長篠城を救うためにかけつけた援軍は、徳川家康軍8000人と織田信長軍30000人を合わせた38000人という武田軍を上回る数でしたが、すぐに戦いを挑むことなく、設楽原に三重の土塁と馬防柵を設けた陣城(野戦築城)を築き、その中へ入って籠りました。

8時間にも及ぶ設楽原での戦いは、徳川・織田連合軍の大勝利となりました。この勝利の原因は、「3000丁の鉄砲の三段撃ち」とされていますが、戦国少女隊では、大量の鉄砲の使用を無視するわけではありませんが、「頑丈な馬防柵」こそ勝利を決定づけたものであると考えています。

5.信玄塚

戦死者の数は不明です。徳川・織田連合軍が6000人で、武田軍が倍の12000人と言われていますが、どちらも信用できない数字ですね。ただ、武田軍の方が有力武将が数多く死んでいることは確かでしょう。

戦死者を埋めた塚を「信玄塚」といいます。これは、武田信玄が死んでいることをはっきりさせるために織田信長が考えた名称だと言われますが、地名でしょうね。

大塚(武田軍の死者を埋葬)と小塚(連合軍の死者を埋葬)があり、大きさの違いで死者数の違い(連合軍が大勝だったこと)が見て分かるようにしてあるとのことです。

詳細なレポートはブログ「戦国少女」にあります!

http://blog.livedoor.jp/sengokugirls/

 

 

 

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