top of page

徳川家康の「生と死」を巡る旅

 

 

戦国少女隊は、毎月1回、お城旅をしていますが、この夏休みには3回!!!

今年は徳川家康公の400年忌ということで、家康の「死」にまつわる故地巡りをしました。

そして、「死」を巡る旅は、「生」を巡る旅にもなりました。

 

(2015年8月訪問)

1.岡崎城
2.産湯の井戸

徳川家康は、壬寅年寅月寅の日にあたる天文11(1542)年12月26日の寅の刻(午前5時頃)に生まれました。この時、父・広忠と母・於大が揃って子授け祈願の参籠をした鳳来寺の本尊である薬師如来を守る「薬師十二神将」のうちの真達羅大将(寅神)の神像が忽然と姿を消し、家康が亡くなると戻ったそうです。

岡崎城内に「産湯の井戸」があります。

徳川家康が生まれると、松平郷松平七代親長は、この「産湯の井戸」の井戸水を竹筒に詰めて速馬で運び、家康の産湯に用いたそうです。

3.太刀洗の池
4.二俣城

浜松市へ行くのに、浜松城へ行かないというマニアックな計画が好き(笑)。「浜松と家康の生死」といえば、唯一の敗戦と言われる「三方ヶ原の戦い」ですね。この合戦の時は、死を覚悟したと思います。

今回は、さらにひねって、「妻の死」「長男の死」をテーマに、まずは「太刀洗いの池」と西来院へ。

築山殿の殺害と信康の切腹の原因は不明です。よく言われるのが、築山殿と信康の妻・徳姫(織田信長の長女)の不仲説ですが、戦国少女隊は、「築山殿と信康を岡崎城に置いて、お愛の方と仲良くしていたのが遠因」だと考えていますが、築山殿は今川義元の姪ですし、信康と家康は仲が悪かったみたいですね。

5.田中城

6.白子由来碑

家康は、いつものように山西へ鷹狩りに出掛け、田中城の清水御殿に入ると、京都の豪商・茶屋四郎次郎(「神君伊賀越え」で活躍した初代清延の次男の清次)が尋ねてきていたので、都で流行している物を尋ねると、「鯛の天ぷら」だというので、作らせて食べた。その晩 から腹痛を起こし、回復しないまま、その3ヵ月後、家康は亡くなった。

「神君伊賀越え」のルートには謎が多いが、藤枝市の旧・白子にある「白子由来記碑」によると、徳川家康は伊勢で野武士の襲撃にあったが、白子の住人・小川孫三に助けられて無事脱出し、岡崎城に入ったという。天正14(1586)年8月14日、孫三はその褒美として家康からこの土地と諸役免除のご朱印をもらうと、この地に「白子」と名づけて居住したという。

 

7.駿府城

8.東照宮

家康は漢方薬マニアとして知られています。100種類以上もの薬草を自ら栽培し、自ら調合して薬を作り、その薬に絶対の自信を持っていたそうです。(現在、薬草園には、ボランティアの方々が薬草を植えています。)

鯛の天ぷらを食べて腹痛を起こした時、駆けつけた侍医頭の片山宗哲が診察し、お腹にしこりを見つけ「癪」と診断しましたが、家康は、サナダ虫の固まりだと自己診断し、宗哲の調合した癪の薬は服用せず、自家製の「万病円」30粒と「銀液丹」20粒を飲んだそうです。「万病円」はバイアグラ同様の効果がある強い薬です。宗哲が「その薬は強過ぎる」と進言すると、家康は怒り、宗哲を信州の諏訪高島への流罪に処したそうです。

遺言は、「遺骨は久能山に納め、葬礼は増上寺にて行い、位牌は三河の大樹寺に納めよ。一周忌を過ぎたら日光山に小祠堂を建て勧請せよ」だったそうです。

 

「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思いだすべし。堪忍は無事長久の基、怒りを敵とおもえ。勝つことばかり知りて、負くることを知らざば、害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」

bottom of page