野田郷を巡る旅
野田郷は、愛知県新城市にあります。稲木長者の領地でしたが、千秋氏が長者を倒して熱田神宮領とし、野田館を建てました。次に富永氏が領主となったのですが、衰退し、替わりに田峯菅沼氏が入って、野田菅沼氏を興しました。
(2015年4月訪問)
1.野田館
2.大野田城
千秋氏は、野田館を建てて、稲木長者邸から移りました。その後、富永氏が入って、「野田郷」は「富永荘」、「野忠館」は「富永館」となりました。
野田館は、川の脇に建てられ、川の水を引き入れて水堀とする住宅兼城の城屋敷でした。
しかし、何度も水害に遭ったので、次に入った野田菅沼氏は、上之山に野田城を建てて移りました。
野田館跡には案内板が建つのみで、遺構はありません。
野田城が攻撃されてダメージを受けた後の修復工事期間中に、臨時の居城とされたのが大野田城です。
野田館と違って遺構はありますが、本丸跡は溜池になっていて、野田城と比べたら、保存状況は良好とはいえません。城の鎮守の不動明王も草に覆われていて、脇の御嶽神しか見えませんせした。
3.野田城
4.井戸
武田信玄「最後の城攻め」「上洛断念の地」として有名な野田城です。
それほど大きな城ではないので、すぐに落城させられると信玄は考えたと思いますが、予想以上にてこずりました。織田信長をおびき出すために、わざとゆっくりと攻めたともいわれていますが。
結局、野田城は「落城」せず、和議による「開城」となりました。
和議に至った最大の理由は、武田信玄が金掘り衆に命じて水抜き穴を掘らせ、井戸水を抜いてしまったからであるとされています。
5.法性寺
6.媛屋敷跡
武田方が和議を急いだ最大の理由を、地元では、「武田信玄が鉄砲に撃たれたからだ」と信じられています。
侍屋敷跡に建てられた法性寺に向かって右の崖には水抜き穴、左の崖の上には信玄が撃たれた場所があります。
また、法性寺の大門は、野田城の二の丸の赤門を移築したもので、脇に野田城の戦いの供養碑が建てられています。小さくて見落としがちですが、ちゃんと拝みましたよ。
お城旅で出て来る名前のほとんどが戦国武将ですが、私たち戦国少女隊は、戦国時代の女性にも注目しています。
ここは、野田菅沼氏の姫が暮らした「媛屋敷」跡です。塚と土塁が残っています。
7.石碑群
兵糧場跡の近くに「松御前」碑、「熱田大神御詠歌」碑、大槻盤渓の「野田城回顧」碑があります。
松御前は、夫の藤原季兼とともに新城市稲木で過ごし、死後、城ヶ峰の山頂の塚に葬られました。城ヶ峰は、武田勢(伝承では武田信玄であるが、学者は否定)が大野田城を攻撃した時に本陣を敷いた場所です。