酒井氏を巡る旅
松平初代親氏は、松平郷へ来る前に、酒井郷の酒井氏の娘・おりんと結婚し、子(酒井広親)を儲けている。
今回の旅は、この三河酒井氏(初期酒井氏)を巡る旅で、旅先は、愛知県西尾市・刈谷市・岡崎市と広範囲である。
(2015年3月訪問)
1.発祥地
2.稱名寺
まずは、酒井氏発祥の地とされる幡豆郡坂井郷(愛知県西尾市吉良町酒井寺後)の酒井屋敷へ行ってみました。近くに案内板があり、「南北朝のころ、伊勢北畠氏ゆかりの新五左衛門この地を拓き、やがて新田氏一族の親氏、新五左衛門をたより入婿し、広親をもうける。これが徳川四天王とあがめられた酒井氏の始祖となる。」と書かれていました。
松平初代親氏は、松寿丸と名乗り、父親の世良田有親と共に、石川孫三郎の案内で稱名寺に入ります。父・有親は亡くなりますが、親氏は酒井氏の娘と結婚して、坂井郷に住み着いたそうです。
境内の徳川家祖廟には、世良田親季・有親・親氏などの墓があります。
3.広親の墓
4.生母の墓
酒井氏発祥の地には、「酒井氏先祖の墓」があります。
案内板には、松平親氏は、新田氏の一族で、相模国藤沢の遊行寺で僧になり、徳阿弥と称したが、還俗して、酒井の五郎左衛門のむことなり一子をもうけた。これが酒井与四郎広親で酒井氏の先祖であるとあります。
酒井氏発祥の地にある本命山誓覚寺(愛知県西尾市吉良町酒井寺後)には、「酒井家始祖広親公御生母墓」があるのですが、インターネットで検索してもヒットするのは酒井広親の墓ばかりです。戦国少女のお城旅では、戦国時代の女性の故地もルートに入れています。
5.光明寺
6.丸山城
長阿弥・徳阿弥の父子が逗留したのは、鏡立山光明寺(愛知県岡崎市矢作町字加護畑)だともいわれています。この寺で親氏は、酒井五郎左衛門と出会い、酒井氏居館に逗留することになったのだそうです。
徳阿弥が松平郷へ移っても、住持との交流は続いたとされ、岡崎市指定文化財「雲珠形松平親氏位牌」などがあります。
酒井氏居館は「丸山城」と呼ばれ、広親が岡崎市に移住すると廃城となりました。江戸時代は庄屋の神谷氏宅だったそうです。
現在は竹藪を残して住宅や工場、畑となり、地名「酒井」の由来となったとされる、お酒のような井戸水が湧き出る井戸は見当たりませんでした。
7.兒塚
8.祖母神社
境村の村はずれに「兒(ちご)塚」があります。ここは、鎌倉街道の追分であり、旅の途中で死んだ子供を埋めた場所ではないかと思いますが、地元では、広親を連れて親氏が松平郷に行くことになった時、別れを惜しんで母・おりんが泣いた場所とされています。それは、先夫・清左衛門と子のことでしょう。
由緒書きに「永享十二年(一四四〇年)結城氏朝の爲に兵燹に罹り烏有に皈した。當時氏地の豪族酒井五郎広親の母殊にいたく之を憂いて神恩報謝の爲社殿を再建し奉った。これ実に嘉吉二年(一四四二年)壬戌正月十一日であった。」とあります。また、焼失した近くの白山神社も、この神社の境内に再建されました。
安祥松平氏の白山信仰は有名ですが、祖母山信仰といえば、九州の信仰です。どなたがこの地に持ち込んだのでしょうか?
(1)信光明寺
(2)回向院
酒井広親は、松平郷の父・松平親氏に会いに行きます。親氏は、「お前は確かに我が息子だが、酒井氏の跡継ぎであるから、家来になれ」と言ったそうです。丸山城を出た広親がどこに住んだのかは分かっていません。広親の墓の説明に、ここは信光明寺の境内であるとありますが、戦国少女隊は、酒井氏居館だと考えています。
広親の子には3人いて、長男・氏忠を祖とする左衛門尉家の菩提寺が大樹寺回向院です。「徳川四天王・酒井忠次出生の城」として有名な井田城(愛知県岡崎市井田町城山)は、酒井左衛門尉家五代(氏忠・忠勝・康忠・忠親・忠次)の居城で、南山麓に居館跡があります。酒井氏が井田に城と居館を建てて移った後、居館跡地に建てられたのが大樹寺だとする説もあります。
(3)龍海院
次男は、普通は仏門に入れられるのでしょうが、親氏が連れに来て、松平郷の六所神社の世襲宮司家としました。
三男・家忠の家系は、雅楽頭家と呼ばれ、菩提寺は龍海院です。『寛政重修諸家譜』には、広親・清秀・正親の墓があると記されていますが、正親の墓しかありませんでした。
龍海院は松平清康が築いた城です。清康は、西郷氏から明大寺城と岡崎城を奪うと、岡崎城を改修して安祥城から移りました。明大寺城跡地に龍海院を建てたということでOK??